ゆうま「ペニ日記」

韻を踏むペニスによるLove & Penisと性教育。

韻を踏む/踏まないの議論について

 

RAPなら、HIPHOPなら、

「韻を踏まなきゃいかん」という意見と

「別に韻は踏まなくてもいい」という意見が

ぶつかり合い、議論になることがある。

 

いつの時代もある議論だったので、

僕としては、

 

"ああまたその話か〜

そんなことより夏は股間が蒸れて気持ち悪いなあ、良いパンツはないかなあ"

 

などと自分の股間の汗の匂いをかぎつつも、

 

やっぱり韻問題が気になって思案にふける。

 

ちなみに最初に言っておくと、僕は、自らを

"韻を踏むペニス"と名乗るほどに

「韻をめっちゃしっかり踏む派」だ。

 

別にめっちゃしっかり踏まなくてもいいけど

韻を踏むことはHIPHOPという枠組みのなかでRAPをすることの必要条件だとさえ思っている。

 

これからRAPを始めるひとに、時々、

RAPの仕方を教えてくれ

弟子にしてくれなどと言われることがあるが、そんなときは「一通りできるまでは」

韻を踏むことから逃げてはダメだと伝えている。

 

それでもなお、韻を踏みたくないとか言ってくるなら、僕ではなく別のひとに相談してくれ、と思う。

 

韻を踏むことはRAPのルールだしマナーだし基礎だ、と初心者のひとには言いたい。

 

基礎をおろそかにして自己流でいいものができるのは生まれつき才能を持った天才君ぐらいで、きっと君はそうじゃない

(奇跡的に君が0.0001%ぐらいの確率で天才だったらごめん。しゃぶるわ。)

 

野球をやるなら素振りからとか、

スキーならまずは八の字だとか、

剣道なら姿勢からとか、

セックスだったら正常位からとか、

みんな基礎があるだろう。

スポーツは詳しくなくて申し訳ないけど。

 

ただ、そのうえで。

 

何事にも言えることだが、

ルールがある、ということは、

ルールを守るひともいれば、破るひともいる、ということだ。

 

ルールを守る大多数がいるなかで、

ルールを破る少数派は、

批判もされるかもしれないが、

良い味が出ていたら、輝いてみえたりする。

 

例えば、俳句や短歌の「字余り」だ。

"5・7・5"または"5・7・5・7・7"というルールがあるにもかかわらず、

はみ出ちゃったチンコみたいな数文字のおかげで、素晴らしい俳句を残したひとも沢山いる。

 

字余りというルールを破る表現は、

いつからか、俳句や短歌の基礎のひとつにさえなってしまった。

 

さらには、青姦(あおかん)もまたそうであろう。

 

人間社会において、

セックスは人に見られていない室内空間でするものだ、というルールがあるなか(わが国ではこれを破ると猥褻物陳列罪になる可能性がある)

 

あえて、人のいるかもしれない外でセックスをするのだ。

 

そしてそこに、一定の楽しみや興奮を覚えるひとたちがいる。

 

こうした例を挙げたらキリがない。

 

 

ブランコを立ち漕ぎするとか、

学校で2時間目に早弁するとか、

塾にポケモンカードを持って行くとか、

肉を生で食うとか、

寿司にアボカドを使うとか、

18歳未満がコンビニでエロ本を立ち読みするたか

海水浴のときもっと奥まで行っちゃおうぜとか

あんまり言いたくないけど、だつぜいとかふりんとか...

 

もちろん、ルールがある以上、それを破ることが倫理的、法的に悪であり、

それゆえ非難や罰の対象となることはあるだろう(僕は君たちに犯罪行為や非道徳的な行為をしてほしいわけではない)。

 

だが、それでもなお、ルールを破ることで得られる快感や、ルールに従わないことで個性を出そうという欲求は、非常に人間らしいともいえるのである。

 

"韻を踏む vs 韻を踏まない" 問題の議論は、

ヒップホップという枠をはるかにこえた

人間とルールに関する議論なのだ。

 

 

 

 

 

 

おちんちん。

 

 

 

 

 

 

追記1: 

韻にこだわりを持つ僕でさえ、実は、

あえて一文字も韻を踏まずに書いた曲がある。

そのとき、言いたいことがこんなにすらすら言えるなんて!やっぱり韻なんて邪魔なんだ!

と一瞬、思いもしたが、

その後にあらためて別の曲を韻をバッチリ踏んで書いてみたとき、韻の大切さを痛感した。

 

一度でいいので、

韻を踏まなきゃいけない派はぜひ、あえて1文字も韻を踏まずに、

韻を踏まない派はぜひ、あえてガチガチに韻を踏んで曲を書いてみてほしい。

 

新たな発見があるはずだ。

 

追記2:

先程このように書いた。

 

"これからRAPを始めるひとに、時々、

RAPの仕方を教えてくれ

弟子にしてくれなどと言われることがあるが、そんなときは「一通りできるまでは」

韻を踏むことから逃げてはダメだと伝えている。"

 

「一通りできるまでは」と書いたのは、

次の理由による。

 

韻を踏むという行為に関して、

"できるけどやらない"のと、

"できないからやらない"では

だいぶ違う。

 

基礎ができないのに自己流をやるひとはいかんなあと思うが、基礎が「一通りできるようになったら」自己流を探ってみてもいいと思う。

 

また、参考までに、日本の武道や芸術の師弟関係の段階を表す言葉に、「守破離(しゅはり)」という言葉がある。

 

まずは教えられたことを"守"って、

できるようになったら"破"って、

さらに自己流を見出したときに、型から、師匠から、"離"れて自由になるというような意味だ。

 

ちなみに僕の最も尊敬しているラッパー、

KICK THE CAN CREWMCUさんはかつて

"守破離"あらため"SHU・HA・RI"というアルバムをリリースしている。